恋愛の二重性を唄う吉田美和(II)——夢で逢ってるから(※追記あり)

はじめに

本稿は、DREAMS COME TRUEの大ファンである筆者が、吉田美和の歌詩世界をこれまで分析したなかで見出した「恋愛の二重性」というテーマについて、「夢で逢ってるから」という曲を題材に掘り下げることを目的とする。

筆者はこれまで、ドリカムの「週に1度の恋人」の歌詩世界を分析してきた。これまでの経緯と「週に1度の恋人」の分析は下記ブログにまとめているので、よかったら一読してみて欲しい。そのなかで現れ出てきたのが、「恋愛の二重性」というテーマである。

t.co

「恋愛の二重性」というテーマの詳細は上掲ブログにまとめたが、もう一度簡単に説明しよう。本当は相手と会いたいはずなのに、会いたくないと相手に伝えたり、それまで好意を寄せていた相手への感情があることをきっかけに憎悪に反転したり…恋愛をすると、人はこうした矛盾する感情や態度、行動に苛まれることがある。こうしたを指す言葉として、筆者は「恋愛の二重性」という言葉を作り出した。

この「恋愛の二重性」というテーマは、何もこれまで見てきた「Ring! Ring! Ring!」や「週に1度の恋人」に限らず、他のドリカムの曲にも広く見られるのではないだろうか。本稿はこの思いつきに着想を得て、「夢で逢ってるから」という曲を題材に、「恋愛の二重性」というテーマについてさらに掘り下げて検討していこうと考えている。

なお、本稿で引用された実際の歌詩や曲の背景の説明以外に書かれていることは、すべて筆者の一つの解釈にすぎないことをつけ加えておく。

 

「夢で逢ってるから」とは

「夢で逢ってるから」は、1999年にリリースされた24枚目のシングル「なんて恋したんだろ」のカップリング曲である。ドリカムファンからは根強い人気を得ている曲で、2012-13年に開催された「DREAMS COME TRUE 裏ドリワンダーランド 2012/2013」で披露されたほか、近年(2023年1月現在)でも2021-22年のライブツアー「DREAMS COME TRUE ACOUSTIC風味 LIVE 総仕上げの夕べ 2021/2022 ~仕上がりがよろしいようで~」ではフル尺で披露された(下掲のYouTubeは2012-13年のライブツアー時の映像)。なお、歌詩を引用する際は、「夢で逢ってるから」が収録された10枚目のアルバム「the Monster」の歌詩カードを典拠とする。

歌詩:

DREAMS COME TRUE 夢で逢ってるから 歌詞 - 歌ネット

コンサート映像(DREAMS COME TRUE 裏ドリワンダーランド 2012/2013より):

www.youtube.com

 

ままならない旅行

わざと大きな声でさよならって言った

わたしはだいじょうぶ 夢で逢ってるから

こんな一節から「夢で逢ってるから」ははじまる。愛する人との別れの場面は寂しい場面になりがちであるが、この歌の主人公はさよならを大きな声で告げ、ショックを受けたり落ち込んだりしていないという。なぜなら私は夢であなたに逢えているから。「Ring! Ring! Ring!」や「週に1度の恋人」で繰り返し登場してきた、強気な主人公像がここでも展開されているようにみえる。

元気だよ全然 この前は初めて

鎌倉まわって江の電で旅をした

 

曇り空 見たかった紫陽花には早くて 半袖もまだまだ寒かった

友達とのぞき込んだ かたいつぼみ

前半部の歌詩をみると、この歌詩が明らかに誰かに対するメッセージになっていることが分かる。私は元気だということを誰かに伝えるために、この間行った鎌倉への旅行の話をしている。ここでやはり気になるのは、主人公が一連の歌詩を1)誰に向けて、2)どこで唄っているのかという点である。一つ目の「誰に向けて」については、考えられる可能性は4つある。①主人公自身、②あなた、③友達、④第三者。②の「あなた」は、主人公がさよならを言った相手のことである。③は主人公と一緒に鎌倉旅行に行く友達、④は、「夢で逢ってるから」の登場人物である主人公とあなた、友達のいずれでもない第三者を指す。二つ目の「どこで」は、夢の世界か現実の世界か、という選択肢がある。せっかく「夢で逢ってるから」というタイトルなのだから、現実世界ではない可能性も考慮に入れる必要があるだろう。

ところがこの「どこで」の問いに関しては、冒頭の歌詩で「夢で逢ってるから」と言っていることから、これは現実世界での話である可能性が高いと筆者は考える。夢の世界であった場合、夢の世界のなかで「夢で逢ってるから」と告げるという不思議な設定になってしまう。もちろんそういったメタ的な設定である可能性も否定はできないものの、本稿ではこれは主人公が現実世界で唄っているものとして分析を進めていく*1。問題は一つ目の「誰に向けて」という点である。③の友達は、歌詩のなかに「友達とのぞき込んだ」とあることから、これは違うとすぐに判断できる(もしも友達に向けてのメッセージなら、「あなたとのぞき込んだ」になるからである)。しかし、①②④のいずれなのかは、依然判然としない。これについては、まだ判断材料が少なすぎるので、早急に結論を出すのはやめて、歌詩の考察を続けよう。

鎌倉に住んでいた人や鎌倉へ訪れたことのある人なら分かるかもしれないが、鎌倉の花といえば紫陽花と言われるぐらい、紫陽花が有名である。紫陽花の見頃は一般に6-7月と言われているが、主人公が友達と行ったときにはまだ紫陽花は開花していなかったようだ。なので、二人が旅行に行ったのは3月下旬や4月、5月ぐらいだったのではないか、と推測される。筆者は鎌倉を訪れたことがないが、本稿を書きながら少しインターネットで調べた限りでは、鎌倉は気候的には年間通して暖かいというが、3月や4月は羽織るものを持参することが推奨されている*2。なので、主人公が友達と旅行に行ったのは半袖には少し早い時期、3月下旬や4月、または5月のたまたま寒い時期だったのではないかと推測する。

初めて訪れる地がどれぐらいの気候なのか、何を着ていけばいいのかは、そこへ行ってみないと意外と分からないものだ。筆者は沖縄出身だが、沖縄の冬は10度を下回ることがめったにないものの、東シナ海からの季節風の影響で風が常に強く、体感温度は意外と低い。冬の時期になると半袖を着て少し寒そうに外を歩く人と遭遇するが、(シャツは鮮やかな色で、帽子やサングラスを身に着けている、という恰好から察するに)おおよそ観光客である。気温は分かっても、体感温度はどんなものか、どういう服装がいいのかは、旅行先だと案外分からないものだ。

まして、「夢で逢ってるから」がリリースされたのは1999年。インターネットもまだ普及していない時代、恐らくこの旅行は主人公のほんの思いつきであったり、友達からの急な誘いによって実現したのではないか。鎌倉は温暖だというしと半袖を着るも、着いてみたら肌寒く、紫陽花の見頃も逃してしまった。元気だよ全然、と主人公がいう割には、旅行の成果としては、あまりうまくいったとは言えないだろう(もちろん、「旅行の成果」をどこに据えるかによってそれは変わってくるが*3)。

 

振り切れない“あなた”

わざと大きな声でさよならって言った

わたしはだいじょうぶ 夢で逢ってるから

2番に入るも、冒頭と同じ歌詩が繰り返される。主人公は相変わらず強気に大丈夫だと繰り返すが、1番のままならない旅行の成果を見たときには、本当に大丈夫か気になってしまう。ある人が本当に元気だったり大丈夫だったりするとき、その人は元気や大丈夫とは言わないのではないだろうか。また、ここに「恋愛の二重性」が現れ出ているとみれば、大丈夫と口では言いながらも本当は大丈夫じゃないと解釈できる。

海はいつ行っても 空と同じ色で

遠く離れていても 寄り添っている

恐らく1番で展開された鎌倉旅行の続きだろう。鎌倉には由比ヶ浜海岸という有名な海岸があるが、江の電の由比ヶ浜駅が最寄りであることから、主人公が行ったのは恐らく由比ヶ浜海岸だろう。

やはり上掲歌詩の卓抜した比喩について語らざるを得ない。海と空は天と地がそうであるように遠く離れているはずだが、海岸から海を眺めると空と接しているようにみえる。海と空が近接している、くっついている、いろいろと言いようはあるだろうが、ここで選択された動詞は「寄り添っている」。人の身体的近接性を指す際によく使われる動詞が選択されていることから、ここに主人公とあなたの関係性を見出すことは不自然ではないだろう。空と海、それぞれが主人公とあなたのどちらに対応しているのかまでは判然としないが、「海はいつ行っても 空と同じ色で」とあることから、海に「不変」「不動」のイメージが重ねられていることが分かる。

1番では「曇り空」であり、2番では空が海と同じ色とあるので、紫陽花を見に行った翌日なのかもしれない。あるいは1番と同じ日で、たとえ曇り空だったとしても、海も同じような色にみえたのかもしれない。さらに、「いつ行っても」に注目すると、主人公が何度か海を訪れていることを示唆する。それはあなたと一緒だったのだろうか。それとも一人で憂さ晴らしに時たま訪れる場所なのだろうか。短いながらも、様々な想像を喚起する一節である。

目を閉じて砂に座って 聞こえる波は 右から左からザブーン

あなたがここにいたなら 何て言うだろう?

続く歌詩「目を閉じて砂に座って 聞こえる波は 右から左からザブーン」は、自身が海岸で経験したことをそのまま記述している。前の歌詩が比喩的であったのに比べれば、実に写実的である。前の歌詩では卓抜した比喩を用いて海と空を描いた主人公も、波についてはどうもうまい言い回しが浮かばず、どうもリアリスティックな記述に留まってしまったのだろうか。

ここで主人公は、「あなたならこの状況をどう語るだろうかなぁ」と、「あなた」について思いを巡らせる。このことから、「あなた」はもしかしたら芸術家やアーティスト、もしくはさまざまな言い回しや比喩の使い手だったのでは、と推測される。二人が一緒だった時は、お互いにこうして目に見える情景や日常のささいな出来事を比喩や上手い言い回しを使って言い合っていたのかもしれない。「夢で逢ってるから」に登場する「あなた」に関する情報は歌詩世界ではほとんど登場しないため、「あなた」がどんな人物かを想像するのは非常に難しいが、こうしたわずかな一節から、「あなた」の人物像の片鱗を見出すことができる。

わざと大きな声でさよなら言ったのは

言えそうもなかったから そうしないと

主人公がわざと大きな声でさよならと言ったのは、言えそうもなかったからだという。歌唱時は、「そうしないと」で間奏に入る(上で紹介したYouTubeのライブ映像ではトランペットのソロが入る)。つまり、ここで主人公は「そうしないと」以後の言葉を濁している。

主人公は別れの場面では、大声で別れを告げることで、さまざまな思いを振り切ろうとしたのであろう。そして歌詩世界でも冒頭から「私は大丈夫」「元気だよ全然」と平然とした態度をとり続け、ままならなかった鎌倉旅行の思い出を紹介してもなお「大丈夫」と言ってきた。そんな主人公が、別れの場面の本当の心境を告白し、その後言葉を濁す。やはり海岸であなたに思いを巡らせたあたりから、強気な主人公像に綻びがみえはじめている。「Ring! Ring! Ring!」で用いた〈建前〉と〈本音〉の構造で言えば、ここでは主人公の裏に潜む〈本音〉が、言葉でここまで展開されてきた強気な〈建前〉を食い破って露わになりつつあるといえる。

 

別れきれない思い出

主人公の沈黙を暗示する間奏が終わると、再び鎌倉旅行の話が続く。

海岸で裸足になって水と遊んで 家に戻って気付いたら

砂が 思い出みたいに ついてきて

 

街灯が見届けた あの最後のキスを

くちびるに触れてそっと 思い出した

海やビーチに一度でも行ったことがある人なら、帰ってきても砂粒が足や靴裏に鬱陶しくひっついてくる様子が想像できるだろう。海ではしゃいでその足で帰宅した主人公は、自分にひっついている砂を見て、「あなた」と最後にしたキスを思い出す。思い出がついてくる、という言い回しは、思い出が自分のなかにあるわけではなく、外からやってくるようなイメージを喚起する。主人公は鎌倉旅行を通して、「あなた」への思い出を振り切ろうとしていたのだと思われる。しかし砂粒をきっかけに、自分のなかで忘れようとしたキスの思い出が蘇ってきてしまった。

砂粒とキスは全く関係ないようにみえる。しかし、「くちびるに触れてそっと」とあることから、主人公の唇に砂がついていたのではないだろうか。それを手で取ろうとした時に、ふと「あの最後のキス」を思い出したと考えられる。

そう、ここで「あの最後のキス」という表現、特に「あの」の部分に着目しなければならない。それは、主人公が誰に向けて唄っているのか、という積み残してきた問いの答えに迫る際のヒントになるからだ。「あの」は、辞書的な説明をすれば、話してからも聞き手からも遠いところにあるものを指すときに使われる指示語である。また、「あの時は大変だった」「あの頃は賑やかだった」のように、話し手が回想して使う場合もある。この場合、聞き手がそのことについて知っていても知らなくても使われるが、ここは文脈を知っている人の前で使う「あの」である可能性が高い。なぜなら、「あの最後のキス」と、主人公が「あなた」と交わしてきた様々なキスのなかから、特定のキスを指示する目的で、ここでは「あの」が使われているからである。特定のキスについての情報をこの歌詩に先んじて共有している者に向かって主人公が唄っていると思われ、このことから、④の第三者の可能性は極めて低くなる。

もちろん、主人公が以前第三者にキスのことを話していて、そのことを思い出してもらうために「あの」と付け加えた可能性も否定できない。しかし、ここで効いてくるのが「街灯が見届けた」というフレーズである。街灯を擬人化したこの表現からイメージされるのは、真っ暗な外、周りには二人を除いて誰もいない状況で、街灯だけがこうこうと二人を照らしていた場面である。そんなドラマや映画のような場面で、二人は最後のキスを交わしたのだろう。

ある人が第三者に最後のキスについて告げるとき、そうした風景描写まで語るだろうか。最後のキスが街灯が照らす夜の誰もいない場所で行われたのは、その場にいた「あなた」と主人公しか知らなかった情報ではなかろうか。そう考えれば、やはりこの歌は主人公が現実世界で、主人公自身、ないしはあなたに向けて唄っていると考えるのが妥当な解釈であるといえる。

(※2023年1月18日追記:ここまでの論述で筆者は、「あの」が特定のキスの場面にいた人を想定して使われていることから、④の第三者に向けた唄である可能性を排除している。しかし、本稿を公開したあとで、ことはそう単純ではないことに気づかされる。契機となったのは、2023年1月12日の夜、『吉田美和歌詩集』を読んでいた時のことである。TEARS編に収録されている「冷えたくちびる」(中村正人監修、豊﨑由美構成・編集『吉田美和歌詩集 TEARS』新潮社、2015年、pp. 65-6)の歌詩を読んだ際、「街灯もうなだれて 濡れてる」(同上、p. 65)という一節が目に入った。続けて「わずかに残る キスの温度も この雨が奪って 冷えて消えていく」(同上、p. 65)という一節を見つけ、大いに驚いた。これはまさに、「夢で逢ってるから」の主人公が最後に交わしたキスの場面そのものではないか。「街灯」というキーワードが入っていることが何よりの証拠である。

「冷えたくちびる」は1995年にリリースされた吉田美和のソロアルバム『beauty and harmony』に収録された曲である。上掲歌詩の続きをみると、「何もかもを もう思い出せない かすかに覚えてた あなたの キスの温度さえ 奪って 冷えたくちびるに 雨は降り続く」(同上、p. 66)とある。主人公は相手と交わしたキスを、雨が降りしきるなかでもうすでに忘れてしまったようだ。仮に「冷えたくちびる」と「夢で逢ってるから」の主人公が同一人物だとすると、「冷えたくちびる」で降りしきる雨のなか忘れ去られてしまったキスが、「夢で逢ってるから」において砂粒を契機に思い出される、という両曲の繋がりが見えてくる。

このことから、「街灯が見届けた」を根拠に「夢で逢ってるから」は④の第三者に向けて唄われたものではない、と早急に判断することはできないと考える。筆者は当初、「あの」は最後のキスを交わした場面を知る者に向けて放たれた指示語だと解釈したが、そのことは必ずしも④の第三者を排除する根拠にはならない。最後のキスを交わした場面を知る者は、「冷えたくちびる」の歌詩を知る者も含まれるからである。

つまり「夢で逢ってるから」の主人公は、「冷えたくちびる」をすでに聞いた者に対し、「ほら、『冷えたくちびる』で唄ったあのキスだよ」という意味で「あの」を用いている可能性がある。「街灯」という、そのキスの場面にいなければ分からないであろう(と当初筆者が考えた)情景も、「冷えたくちびる」の歌詩のなかにもしっかりと登場している。そうすると、「夢で逢ってるから」は、吉田美和のソロアルバムを聴いてきたドリカムのファンに向けての、4年越しのアンサーソングと解することもできる。

このことを通じて筆者は、これまで歌詩世界を分析するに際して、唄を聞き届ける人に向けて歌詩が紡がれている可能性についてほとんど考えてこなかったことにも気づかされた。もちろん、「冷えたくちびる」との連続性という考察も一つの歌詩解釈の可能性でしかなく、唯一の正解というわけではない。ただし、筆者はこれまで歌詩世界を一つの完結した世界と見做し、聴衆の存在を無意識に排除してきたために、この可能性にすぐに気づけなかった。また一つの曲を完結した歌詩世界として解釈することで、他の曲との連続性という可能性も無意識のうちに考慮してこなかった。しかし、そもそもアーティストが歌をリリースするのは、その歌が誰かに聞き届けられることを望んでいるからであろう。今後は、ときには聴衆を重要なエージェントに含め、また他の曲や他の作品など歌詩世界の外の情報も適宜参照しながら、歌詩世界を解釈していきたいと考えている。)

さて、それでは主人公が唄っているのは自分自身に向けてか、それとも「あなた」に向けてか。判断の難しいところではあるが、主人公が「あなた」に「私はあなたと夢で逢ってるから大丈夫だよ」と告げる図は少し想像がつきづらいので、以降は主人公が主人公自身に歌っていると解釈することにしよう*4。そうすると、「夢で逢ってるから」は主人公が自身に「私は大丈夫」「元気だよ」と言い聞かせる、あるいは自身の中にある仮想の「あなた」に「私は大丈夫」「元気だよ」と話しかける唄と解釈できる。「私は大丈夫」「元気だよ」と話す主人公が鎌倉に行って「あなた」への思いや思い出と別れを告げようとするものの、どうも思い通りにいかないし、あなたについ思いを巡らせてしまうし、挙句最後のキスを思い出してしまうし、主人公の言葉と実態・想いはどうも乖離し続けている。

街灯が見ていた あの最後のキスは

この砂の粒のように 離れないけど

 

元気だよ全然 いろいろやってる

わたしはだいじょうぶ 夢で逢ってるから

これが「夢で逢ってるから」の最後の歌詩だが、主人公はここで再び元気を取り戻す。前半と後半が逆説「けど」でつながっているが、傍から見ているとどうも二つはつながっているようにはみえない。「あなたがここにいたなら」とふと考えてしまうし、思い出を忘れようとしてもふとしたきっかけで思い出してしまう。主人公はずっと「あなた」とは真の意味で別れきれていないのである。「元気だよ全然」と何度も繰り返されたフレーズが登場し、「いろいろやってる」に至っては、いや、いろいろって何やねん、と(沖縄出身の筆者が関西弁で)突っ込まざるを得ないぐらい、深い意味を持たない、つい口を突いて出てきた言葉のようにみえる。「元気だよ全然」という言葉を言葉通りに受け取らない可能性を先に示したが、本当は全然元気でもなければ大丈夫でもないのに、「元気だよ全然 いろいろやってる」と強がってしまう。とり乱しそうになるのをじっと堪えるその姿に、なぜそこまでして「元気だ」「私は大丈夫だ」と言い続けられるのだろうと、驚きを禁じ得ない。

しかし、実はその答えはずっと繰り返されている。それは主人公は「あなた」と「夢で逢ってるから」である。現実では恐らくもう逢うことのできない「あなた」と夢の世界では逢っている、だから現実の出来事がままならなくても、思い出とさよならできなくても平気なのである。「私はだいじょうぶ 夢で逢ってるから」という何度も繰り返されてきたフレーズが最後にまた繰り返されることで、冒頭や中盤とはまた違った意味が浮かび上がってくる。

歌詩を全篇見てきたが、最後まで主人公がみるという夢の内容が一切出てこないのは興味深い。タイトルにも入っていて、主人公が元気だ、私は大丈夫だと言い続けられる源であるはずの夢がどんな内容なのか、どのくらいの頻度でみているのか、主人公はその夢をどう解釈しているのか、この歌詩世界のなかでは一言も語られていない。そこは歌詩世界のなかでは徹底的に秘匿されている。夢の世界については、聞き手や読者であるわれわれの想像に委ねられている。

さて、「恋愛の二重性」というテーマに戻って振り返ってみると、「夢で逢ってるから」には二つの「恋愛の二重性」が見られることが分かる。第一に、ここまでの歌詩世界の分析から見えてきた、「あなた」と別れたことを平気なこととして語る主人公と、まだ思い出と別れることができていない主人公の二面性である。これは「Ring! Ring! Ring!」や「週に1度の恋人」で繰り返し登場してきた、強気な〈建前〉でもって〈本音〉を隠す主人公像が「夢で逢ってるから」でも再演されていることを示している。

もう一つの二重性は、夢の世界と現実世界の二重性である。先に示したように筆者は「夢で逢ってるから」の歌詩世界を、主人公が自分自身に向けて、現実世界で唄っているものとして解釈してきた。卓抜した比喩表現を使いながらも、リアリズムに徹して唄われる世界と、要所要所で「実はあなたと夢で逢っている」と示唆されながらもその仔細が明かされない夢の世界の二重性が、「夢で逢ってるから」のなかには出ている。そして夢の世界がどのようなものなのか一切語られないことで、ここまで赤裸々に心境を独白してきた主人公がそれでも語ろうとしない“夢”とはどのようなものなのか、この唄を聴く者の想像力は掻き立てられる。

ただし、「夢と現実」という二項対立的な図式は、この歌詩世界では成り立たないのかもしれない。というのも、これが主人公の主人公自身への独白であるとすれば、それは主人公の内的世界で展開されている話であって、現実世界で起こったこととどれだけ一致しているのかというのは判別がつかない(あるいは一致している必要性がない)からである。本稿では「夢と現実」という二項図式を自明視してここまで歌詩世界を見てきたが、この視座を相対化してみたとき、また違った歌詩世界の解釈可能性が見えてくるかもしれない。

 

おわりに

ここまで、「夢で逢ってるから」を題材に、吉田美和の歌詩世界において「恋愛の二重性」がいかに描かれているのかを見てきた。そして、「あなた」と別れたときも別れてからも平然と振る舞う主人公の〈建前〉に潜む、「あなた」との別れがたさという〈本音〉が、歌詩が進むにつれ徐々に顕わになり、なぜ主人公がとり乱さずに済んでいるのかといえば、それは「あなた」と夢で逢ってるからだ、ということが明らかにされた。〈建前〉と〈本音〉という、これまで「Ring! Ring! Ring!」や「週に1度の恋人」で繰り返し参照されてきた「恋愛の二重性」の構造に加えて、本稿は「夢と現実」という「恋愛の二重性」の存立可能性を示したことで、「恋愛の二重性」にさらに迫れたのではないかと考える。

なお、繰り返すが、本稿で提示した歌詩世界の分析は、筆者の一つの解釈にすぎない。私とは違った読み方もあり得れば、私の解釈に異を唱える者もいるだろう。本稿がきっかけで、吉田美和の歌詩世界を読みとく試みが増えてくれれば、これ以上に嬉しいことはない。

*1:この方針にむむっ、果たしてそうかな、と思った方は、夢の世界バージョンの考察をしてみてはどうだろうか。是非ともそうした考察も見てみたいからである。これは決して挑発の意味ではなく、文字通りの意味でそう思う。

*2:参考にしたサイト:https://buzz-trip.com/kamakura/kamakuraweather/ バズトリ -BuzzTrip Kamakura- 観光・グルメ・自然(2023年1月7日閲覧)

*3:関連して、ドリカムファンの間で「夢で逢ってるからごっこ」という言葉を見聞きしたことがある。「夢で逢ってるから」の歌詩をなぞり、実際に江の電に乗って鎌倉を旅し、紫陽花を見たり由比ヶ浜海岸に行ったりすることである。大抵は紫陽花の見頃に鎌倉を旅行するだろうが、なかにはこの歌詩世界の主人公の行動や経験を完全に模倣するために、紫陽花の見頃を敢えて外して硬いつぼみを観察し、半袖で鎌倉を訪れ、「半袖もまだまだ寒いね」と感じる人もいるかもしれない。歌詩世界を完全に模倣したい人にとっては、こうした旅行の成果であれば大成功というほかない。

*4:もちろんこの点についても、*1同様、いやいや「あなた」に向けて唄っているだろう、と思われた方は、是非その発想にもとづいて歌詩を分析してみてほしい。どんな違った歌詩世界の解釈が見えてくるのか、興味がある。