限りなく絶望に近い希望——DREAMS COME TRUE「いつのまに」

はじめに

人はふつう、様々なことに対して鈍感なまま生きている。例えば道を歩いているとき、その道を舗装してくれた工事作業員に常々感謝している人はいないだろうし、その作業員がどのような環境で舗装してくれていたのか、きちんと待遇は支払われていたのだろうか、などと思いを巡らせることは、ほとんどの人はしない。私は現在パソコンに向かってこのブログを書いているが、このパソコンはどのような工程で作られたのか、部品はそれぞれどこから調達されたのか、それぞれの過程でどれだけの人が関わってきたのか、そうした人たちにきちんと見合っただけの賃金が支払われているのか、などといったことは、真剣には考えていない。人は一人では生きていけないのは当然のことであるが、自分が生きていくなかで、どれだけたくさんの人の支えがあって生きていられているのか、省みることは滅多にない。日常生活を送るなかで、人はさまざまなことを考えているようにみえて、実はほとんどの考え得ることを考えずに過ごしているのである。むしろ考えるに値すること(人それぞれだろうが、例えば仕事のこと、恋愛のこと、趣味のこと、最近の政治のこと、自身の将来展望のこと、など)について真剣に考えるために、私たちはそれ以外のことに対しては鈍感な状態のまま、日々暮らしている。

しかし、常にその原則がまかり通るはずもない。特に、自分が鈍感な状態で判断し、行なってきたことが、誰かを傷つけてしまったり差別してしまったりしたことが分かったとき、その鈍感さを省みる視点が立ち現われる。なぜもっと考えて行動しなかったのだろう、少しでも考えればこんなこと回避できたはずなのに、と自分の鈍感さを責め、傷つけてしまった人に申し訳ないと罪の意識を抱くだろう。

そしてもし、そのことで発生した事象が、すべて自分に責があり、自分を責めるしかないと思い込まされたとき、人は絶望を経験する。きっと、その事象に関係ない他のことにまで思いを巡らせて、自分がいかに多くの人を傷つけてきたか、あるいは傷つけた可能性があったかについて、深く考えるだろう。これだけ迷惑をかけるのであれば、いっそ自分という存在がいなくなってしまえば、とすら考えるかもしれない。

冒頭からいきなり重いたとえ話が続き申し訳ないが、これは私が2年前、実際に経験した事象である。私は、私が書いたことをめぐってある人を傷つけてしまった。そしてそのことは、少しでも考えればそうは書かなかったことであったので、私の鈍感さに由来するものであった。そのことに気づかされたとき、私は申し訳ないと思ったし深く反省した。

しかし、傷つけられた当人は私のした行為そのものよりも私自身に執着していた。私の鈍感さゆえ相手を傷つけてしまったことには間違いがないが、全ての責が私にあるかというと微妙な事象のようで、私が相談した人は皆口を揃えて「その人の言い分は通らない」と言った。私も直感的に、自分に非がありながらも、このように問われ続ける問題なのだろうか、とずっと考えていた。しかし、その人は私にすべての非があるように捉え、私のした行為よりも次第に私自身に執着を見せるようになった。その結果、私は体調を崩してしまった。

なぜ私は体調を崩してしまったのか。それは、その人が握っていた情報が、私のプライバシーに関する情報であったからだ。その人が私の名前を書いた瞬間、あるいは事の詳細を述べた瞬間、私はこれまでと同じような社会生活を送れなくなる。私は、当人の主張や理屈に違和感を覚え続け、私自身への執着をやめてほしいと思い続けていたが、異を唱えた瞬間、私の情報がその人によって曝されることを懼れ、それを吞み込むしかなかった。理不尽な主張や勝手な思い込みにもとづく投稿も受け容れるほかなく、私さえ我慢すればいいのだ、とずっと考えていた。

私はDREAMS COME TRUEの大ファンで、ほぼ毎日ドリカムの曲を聴くなかで、嫌なことや悩みごとがあってもすぐに忘れてしまっていたが、体調を崩したときばかりはそうはいかなかった。大好きだった「ねぇ」や「AGAIN」「あなたが笑えば」(どれもとてもいい曲なので、よければ調べて聴いてみてほしい)を聴いても、何も刺さらず、応援歌として知られる「何度でも」や「TRUE, BABY TRUE.」も、自分はこの歌詩のなかに存在しない、と思った*1。普段私は歌詩の人物に自分を同一化して聴くことはしないため、こんなことは考えないが、この時ばかりは歌詩世界に救いを求めていたのかもしれない。吉田美和の歌詩世界を通じて、私の惨状を慰めてもらい、一歩踏み出す勇気を与えてもらいたかったのだと思う。でも、あまりに自分の絶望が深かった私には、それはできなかった。

そのようななかで、唯一私の状況に寄り添ってくれると感じた曲が、「その先へ」と「いつのまに」である。「その先へ」は「眠れない夜の 悲しみの海の 出口の見えない 暗闇のその先へ」(中村正人監修、豊﨑由美構成・編集『吉田美和歌詩集 LIFE』新潮社、2014年、p. 129)という歌詩をみたときに、あっ、深い絶望に打ちひしがれた私でも、〝その先〟を見据えていいのだ、と素朴に思えて、久しぶりに涙が出てきた。もう一曲の「いつのまに」はそれ以上に、過酷な状況に立たされていた私に寄り添ってくれ、さらに自分を絶望から引き剝がしてさえくれた。本稿はDREAMS COME TRUEの「いつのまに」の歌詩世界についてみていくことを通して、私がいかにこの曲に心を震わされたか書いていこうと思う。

なお、本稿で引用された実際の歌詩や曲の背景の説明以外に書かれていることは、すべて筆者の一つの解釈にすぎないことをつけ加えておく。これは本ブログの記事で毎回ことわっていることだが、本稿は私自身の経験と直接的に結びつきながら歌詩の考察が進むため、改めて強調しておきたい。

「いつのまに」とは

「いつのまに」は、2001年に放送されたテレビドラマ「救命病棟24時」の第2シーズンの主題歌である。「救命病棟24時」といえば、フジテレビが手掛ける人気シリーズで、2013年に第5シーズンまで放映されているが、そのすべてのシーズンの主題歌をドリカムが手掛けている。「朝がまた来る」(第1シーズン)、「何度でも」(第3シーズン)、「その先へ」(第4シーズン)、「さぁ鐘を鳴らせ」(第5シーズン)と、他の主題歌はどれもドリカムを代表するヒット曲になっている。

歌詩:DREAMS COME TRUE いつのまに 歌詞 - 歌ネット

PV:

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コンサート映像(裏ドリワンダーランド2016より):

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救命病棟24時」シリーズの主題歌のなかでも、「いつのまに」は異彩を放っている。他4曲の歌詩は、困難な境遇やままならない状況からの救いが企図されており、いわゆる「応援歌」として広く知られるナンバーである。それに比して「いつのまに」の歌詩は終始暗く、一見すると励ましや救いの要素はほとんどない。長年ドリカムファンをしてきた体感からいうと、「救命病棟24時」シリーズの主題歌全5曲のなかでも、「いつのまに」はファンのなかでの人気は一番少なく、知名度も一番低い。

しかし、一部のファンからは根強い人気があるからか、ドリカムのライブでは今でも定期的に演奏されている。直近でいえば、2021-22年のライブツアー「DREAMS COME TRUE ACOUSTIC風味 LIVE 総仕上げの夕べ 2021/2022 ~仕上がりがよろしいようで~」ではフル尺で披露された。このライブに参加した際には、同行者がこの曲のファンだったため、披露された際はそのことが嬉しく、改めて聴くといい曲だな、と思ってはいたが、昨年絶望に打ちひしがれていたタイミングで聴いたときには、それどころではないインパクトを私にもたらした。なお、歌詩を引用する際は、『吉田美和歌詩集 LIFE』の「いつのまに」(中村正人監修、豊﨑由美構成・編集、新潮社、2014年、pp. 81-2)を典拠とする。

 

絶望に次ぐ絶望

耳をすましては 奇跡をあきらめ

空は暗め 火曜の雨

「いつのまに」は以上の歌詩からスタートする。声に出して読んでみる、あるいは唄を聴いてみると分かるが、「あきらめ」「暗め」「雨」と「め」で韻を踏んでいる。

それにしても、何とまあ暗い出だしだろうか。耳をすませていたということは、唄い手は奇跡の可能性を信じていたのだろう。それでも無理そうだ、と思ったようである。奇跡をあきらめることとそのときの天候という本来は関係がないはずのこと(このことは後々重要な意味を帯びてくる)を、唄い手は韻を踏むことで同一次元のこととして連想しているといえる。とても、「夢は叶う」をアーティスト名に掲げるグループの曲とは思えない。

虹を願っては 届かぬ手ひっこめ

終わりは 今日もまた苦め

願っていた奇跡はなるほど、虹がかかることだったのか、とここで合点がいく。ただ、「届かぬ手ひっこめ」とあることから、虹が実際にかかったとしても、虹は自分より遥か高いところにしかなかった、という可能性もある。「終わりは 今日もまた苦め」の「今日もまた」というフレーズに、唄い手が苦い終わりを迎えたのは果たして今日で何度目なのだろう、と思いを馳せてしまう。

あぁ いつのまに 涙さえ忘れて

あぁ 泣きながら 生まれたのに

先に述べたライブの同行者がこの曲を好きなのは、この一節に感銘を受けたからだと以前話してくれた。ほとんどの赤ん坊は泣きながら生まれてくる。赤ん坊から多少成長しても、子どもは少しでも親と離れたときや不快な経験をしたときに泣く。泣くという行為はそれだけ人間にとって生理的に当たり前の現象だったはずなのに、いつのまにか自分は涙を忘れてしまった。悲しみや絶望が日々積み重なり、自分のなかで当たり前の事象になった結果、辛さや痛みに対する生理的反応までが自分のなかで忘れ去られてしまう。何と悲しいことか。

人は、涙を流さないことを学ぶなかで大人になっていく側面がある。男は「泣くなんて男らしくない」と言われ続け、女は「泣いたって何も解決しないよ」と言われ続けることで。泣かないという経験は、社会が要求する「大人らしさ」に私たちがしたがって社会化されていくなかで、徐々に忘れ去られていく。そうやって自分のなかにある苦しみの表出を我慢することを通して、次第に痛みや苦しみ自体が段々とみえなくなっていく。冒頭で私は、人がさまざまなことについてたいていは鈍感な状態で生きている、と書いたが、人は大人になるにつれて、自分のなかにある痛みや苦しみに対しても鈍感な状態を維持していくようになるのではなかろうか。ある人は、己れ自身の痛みと向き合わさせないように社会は成り立っていると説いたが*2、自分のなかにある痛みに鈍感になっていることに気づいた主人公の絶望が、ここには表れ出ている。

詩は二番に移る。

思いためこんでは捨て 夢は覚め

落ちる先は かなり深め

私が絶望に打ちひしがれていたとき、こんなことがよく起きた。自分が抱えている問題について、どうしたらいいだろう、解決のしようがないんじゃないかと思っていると、その晩や翌晩に、その問題が解消される場面が夢に出てくるのだ。その夢はあまりにもリアルで、夢から目覚めてもしばらくはそれが現実かどうか分からない。実際知り合いに「この間こんな連絡くれたっけ? くれなかったっけ?」と尋ねたこともあるほどだ。それが現実のものではないと知ったとき、私は失意の底に突き落とされる気分だった。「思いためこんでは捨て」とあるが、自分のなかで捨てたつもりでも捨てきれなかったものが、夢という形に変換され、理想的なかたちで自分のなかに立ち現われる。夢とはなんとも残酷なものだと思ったし、夢から醒めたくないとまでは言わないが、何も変わらない現実に対し深い絶望を覚えた。

そして再び、「あぁ いつのまに~」と、一番のサビが繰り返される。終始思い通りにいかず、そのことの蓄積が自分自身の絶望をどんどんと深くしていく様が、どこか自分を突き放したような気楽さで唄われていく。

 

祈り、そして絶望

ここまで絶望一色にしか見えない「いつのまに」の歌詩世界だが、二番が終わったあとには、次の一節が挟まれる。

火曜の雨 明日のため 止め

ここには、唄い手の、ここまで己れ自身のなかに折り重ねられてきた絶望に光が差すように、雨が止んで欲しいという超常現象を期待する祈りが、「雨」「ため」「やめ」と立て続けに韻を踏むことで表明される。どれだけ絶望が深くても、せめて天気だけは、私の味方でいてほしいということだろう。祈ることで天気が変わることと、自分の境遇が変わること。冷静に考えてみれば後者の方が実現可能性は遥かに高いはずだが、唄い手にとっては、天気が変わることの方が祈りの対象として意識しやすかったのだろう。明日も私が生きていけるために、絶望から少しでも前進するために、どうか、雨だけでも止んでくれ、という、個人単位でありながらも大きな規模の祈りである*3

あぁ いつのまに 涙さえ忘れて

あぁ 泣きながら 生まれてきたはずなのに

再びサビのフレーズが繰り返される。そして、涙さえ忘れてしまった私への深い絶望がリフレインされる。一番と二番のサビは「生まれたのに」で終わっているが、ここでは「はずなのに」で終わり、この歌詩には続きがあることを予期させる。

あぁ いつのまに 泣くことを忘れて

あぁ いつのまに 叫ぶ声も失って

叫ぶことすらも、自分のなかで封印してしまった。最後に叫んだのはいつだろう、誰かに助けを求めて声を上げたのはいつだろう。それが思い出せないほど、永く自分のなかに封印していた原初的な体験の喪失を、唄い手は悲しんでいる。

あぁ いつのまに 涙さえ忘れて

あぁ 人はみな 泣きながら生まれるのに

この一節が唄われて、「いつのまに」の歌詩世界は幕を閉じる。二番の歌詩が終わってからは、涙や叫ぶ声を忘れた自分への深い絶望が立て続けに表明される。まるで、直前の祈りをかき消すように。

このことを踏まえれば、本稿のタイトルは「限りなく絶望に近い希望」となっているが、むしろ歌詩世界の全体を見た末に出てくる言葉は、恐らく「ほとんど絶望一色の絶望」ではなかろうか。希望が唄い手の根底にあるようにはどうも見えない。

しかし、ほとんど絶望に彩られた歌詩世界のなかで、雨が止むことを祈るあの一節があっただけでも、いやむしろ、この絶望に満ち溢れた歌詩世界のなかで、短い祈りが一節だけ描かれていたことこそが、私にとっては救いだったのである。絶望一色にみえる歌詩のなかで、唄い手が唯一希望を見出そうとする一節をもう一度引用する。

火曜の雨 明日のため 止め

私は実際にこの一節を読んだ際、あぁ、ここに私がいると思えた。月曜の夜、わたしの仔細を匂わせる投稿を見てしまい、寝るどころではなくなった。慌てて『吉田美和歌詩集 LIFE』を手に取り、貪るように読んだ。そのなかでこの一節に出会う。時刻は夜中3時を回っていて、とっくに火曜日になっていた。外は前日の夕方から続く小雨が降りしきっていた。あまりにも自分の状況とピッタリだった。安直な言い回しではあるが、心が本当に震えた。火曜の雨、明日のため、止め、と私も思った。そして、気づいたら涙を流していた。

そして、そこで涙が流れたことで、私はこの歌詩を越えられた、と思えた。涙さえ忘れたことに何よりも深い絶望を覚える唄い手と違い、私は涙を流せたことで、深い絶望に彩られた詩の言葉が、自分から切り離される感じがした。私は、この絶望一色の歌詩世界のうち、この祈りの部分にだけ自己同一化し続ければいいんだ、と思えた。思い通りにいかなくても、この祈りが象徴する小さな光を自分のなかに灯し続けることで、このめちゃくちゃな世界も何とかなる気がする。そこには、私が求めていた救いがあった。翌朝、雨は止んでいたかどうか、覚えていない。この一節と出会い、自己を絶望から切り離せた私にとっては、すでに天気はどうでもいい問題になっていたのだろう。

 

おわりに

ここまで、「いつのまに」の歌詩世界を見てきた。これまでの歌詩世界の考察では、ここで歌詩全体を振り返る記述を展開しているが、本稿ではそれはしない。これはあくまでも私個人の解釈だし、しかも本稿はこれまでの考察と比べて、かなり私自身の経験が貫かれて解釈が展開されている。これまで繰り返し聴き、『吉田美和歌詩集』や歌詩カードで歌詩を何度も読んできたどのときに考えたことでもなく、あくまでも、あの瞬間に私が思ったことを、今こうして追想しながら書いているのが本稿なのである。

これをここまで書き終えたことで、私は、本当の意味で、新しい一歩を踏み出せると思う。あの時より、今は何倍も強いから、迷ったとしてもその度に、ぐっと前へ進むことができると信じている。大丈夫、最悪の時はもう過ぎているから。必ず心から笑える日は、やって来るから。私が私でいられる日は、もうそこで手を振って待っているから。

*1:もっと言えば、「何度でも」に出てくる「君」や「TRUE, BABY TRUE.」の「友達」、「家族」、「大事な人」といった存在も、今の私の周りにはいない、と思っていた。声を上げること自体に躊躇い続けた結果、自分で問題を抱え込もうとしていた。そのことも、歌詩世界への共感を遠ざけることになった。周りでハラスメント被害に遭った人や苦しい思いを抱えている人には、周囲の人や信頼できる人に相談するといいよ、と伝えてきたが、いざ自分がその状況に直面したことで、相談に躊躇してしまう気持ちが今ではよく分かる。それでも敢えて、いやむしろ自分が相談しないことによる辛さを経験したからこそ、私は人に相談することの可能性に賭けたい、と今では思える。

*2:ウーマン・リブの代表的な担い手であった田中美津の著作『新版 いのちの女たちへ:とり乱しウーマン・リブ論』パンドラ、2016年[初版1972年]で提示される議論。余談だが、筆者の本ブログのすべての記事の底流には、田中美津の思想がある。

*3:あるいは、ここで唄い手は、ここまで唄ってきた個人単位の絶望よりも、雨という大勢の人に影響を与える不幸を取り除くことを祈っていると考えることもできる。ここまで歌詩世界の言葉をほとんどそのままの意味で解釈して使ってきたが、これを比喩として捉えたときに、「雨」は自分だけではなく多くの人に一様にもたらされる不幸を指していると捉えることができる。日々の生活がままならず、絶望は積み重なるばかり、でも私のことはどうでもいいから、せめて皆の絶望が消えてほしい、例えばロシアとウクライナの戦争は止んで欲しい。そんな、深い絶望にいながら(あるいはいるからこそ)、自分以外の大勢に影響があるような不幸を取り除くことに祈りを見出しているのが、唄い手であると解釈することもできる。いずれにせよ、唄い手がスケールの大きな祈りをしていることには変わらない。

恋愛の二重性を唄う吉田美和(II)——夢で逢ってるから(※追記あり)

はじめに

本稿は、DREAMS COME TRUEの大ファンである筆者が、吉田美和の歌詩世界をこれまで分析したなかで見出した「恋愛の二重性」というテーマについて、「夢で逢ってるから」という曲を題材に掘り下げることを目的とする。

筆者はこれまで、ドリカムの「週に1度の恋人」の歌詩世界を分析してきた。これまでの経緯と「週に1度の恋人」の分析は下記ブログにまとめているので、よかったら一読してみて欲しい。そのなかで現れ出てきたのが、「恋愛の二重性」というテーマである。

t.co

「恋愛の二重性」というテーマの詳細は上掲ブログにまとめたが、もう一度簡単に説明しよう。本当は相手と会いたいはずなのに、会いたくないと相手に伝えたり、それまで好意を寄せていた相手への感情があることをきっかけに憎悪に反転したり…恋愛をすると、人はこうした矛盾する感情や態度、行動に苛まれることがある。こうしたを指す言葉として、筆者は「恋愛の二重性」という言葉を作り出した。

この「恋愛の二重性」というテーマは、何もこれまで見てきた「Ring! Ring! Ring!」や「週に1度の恋人」に限らず、他のドリカムの曲にも広く見られるのではないだろうか。本稿はこの思いつきに着想を得て、「夢で逢ってるから」という曲を題材に、「恋愛の二重性」というテーマについてさらに掘り下げて検討していこうと考えている。

なお、本稿で引用された実際の歌詩や曲の背景の説明以外に書かれていることは、すべて筆者の一つの解釈にすぎないことをつけ加えておく。

 

「夢で逢ってるから」とは

「夢で逢ってるから」は、1999年にリリースされた24枚目のシングル「なんて恋したんだろ」のカップリング曲である。ドリカムファンからは根強い人気を得ている曲で、2012-13年に開催された「DREAMS COME TRUE 裏ドリワンダーランド 2012/2013」で披露されたほか、近年(2023年1月現在)でも2021-22年のライブツアー「DREAMS COME TRUE ACOUSTIC風味 LIVE 総仕上げの夕べ 2021/2022 ~仕上がりがよろしいようで~」ではフル尺で披露された(下掲のYouTubeは2012-13年のライブツアー時の映像)。なお、歌詩を引用する際は、「夢で逢ってるから」が収録された10枚目のアルバム「the Monster」の歌詩カードを典拠とする。

歌詩:

DREAMS COME TRUE 夢で逢ってるから 歌詞 - 歌ネット

コンサート映像(DREAMS COME TRUE 裏ドリワンダーランド 2012/2013より):

www.youtube.com

 

ままならない旅行

わざと大きな声でさよならって言った

わたしはだいじょうぶ 夢で逢ってるから

こんな一節から「夢で逢ってるから」ははじまる。愛する人との別れの場面は寂しい場面になりがちであるが、この歌の主人公はさよならを大きな声で告げ、ショックを受けたり落ち込んだりしていないという。なぜなら私は夢であなたに逢えているから。「Ring! Ring! Ring!」や「週に1度の恋人」で繰り返し登場してきた、強気な主人公像がここでも展開されているようにみえる。

元気だよ全然 この前は初めて

鎌倉まわって江の電で旅をした

 

曇り空 見たかった紫陽花には早くて 半袖もまだまだ寒かった

友達とのぞき込んだ かたいつぼみ

前半部の歌詩をみると、この歌詩が明らかに誰かに対するメッセージになっていることが分かる。私は元気だということを誰かに伝えるために、この間行った鎌倉への旅行の話をしている。ここでやはり気になるのは、主人公が一連の歌詩を1)誰に向けて、2)どこで唄っているのかという点である。一つ目の「誰に向けて」については、考えられる可能性は4つある。①主人公自身、②あなた、③友達、④第三者。②の「あなた」は、主人公がさよならを言った相手のことである。③は主人公と一緒に鎌倉旅行に行く友達、④は、「夢で逢ってるから」の登場人物である主人公とあなた、友達のいずれでもない第三者を指す。二つ目の「どこで」は、夢の世界か現実の世界か、という選択肢がある。せっかく「夢で逢ってるから」というタイトルなのだから、現実世界ではない可能性も考慮に入れる必要があるだろう。

ところがこの「どこで」の問いに関しては、冒頭の歌詩で「夢で逢ってるから」と言っていることから、これは現実世界での話である可能性が高いと筆者は考える。夢の世界であった場合、夢の世界のなかで「夢で逢ってるから」と告げるという不思議な設定になってしまう。もちろんそういったメタ的な設定である可能性も否定はできないものの、本稿ではこれは主人公が現実世界で唄っているものとして分析を進めていく*1。問題は一つ目の「誰に向けて」という点である。③の友達は、歌詩のなかに「友達とのぞき込んだ」とあることから、これは違うとすぐに判断できる(もしも友達に向けてのメッセージなら、「あなたとのぞき込んだ」になるからである)。しかし、①②④のいずれなのかは、依然判然としない。これについては、まだ判断材料が少なすぎるので、早急に結論を出すのはやめて、歌詩の考察を続けよう。

鎌倉に住んでいた人や鎌倉へ訪れたことのある人なら分かるかもしれないが、鎌倉の花といえば紫陽花と言われるぐらい、紫陽花が有名である。紫陽花の見頃は一般に6-7月と言われているが、主人公が友達と行ったときにはまだ紫陽花は開花していなかったようだ。なので、二人が旅行に行ったのは3月下旬や4月、5月ぐらいだったのではないか、と推測される。筆者は鎌倉を訪れたことがないが、本稿を書きながら少しインターネットで調べた限りでは、鎌倉は気候的には年間通して暖かいというが、3月や4月は羽織るものを持参することが推奨されている*2。なので、主人公が友達と旅行に行ったのは半袖には少し早い時期、3月下旬や4月、または5月のたまたま寒い時期だったのではないかと推測する。

初めて訪れる地がどれぐらいの気候なのか、何を着ていけばいいのかは、そこへ行ってみないと意外と分からないものだ。筆者は沖縄出身だが、沖縄の冬は10度を下回ることがめったにないものの、東シナ海からの季節風の影響で風が常に強く、体感温度は意外と低い。冬の時期になると半袖を着て少し寒そうに外を歩く人と遭遇するが、(シャツは鮮やかな色で、帽子やサングラスを身に着けている、という恰好から察するに)おおよそ観光客である。気温は分かっても、体感温度はどんなものか、どういう服装がいいのかは、旅行先だと案外分からないものだ。

まして、「夢で逢ってるから」がリリースされたのは1999年。インターネットもまだ普及していない時代、恐らくこの旅行は主人公のほんの思いつきであったり、友達からの急な誘いによって実現したのではないか。鎌倉は温暖だというしと半袖を着るも、着いてみたら肌寒く、紫陽花の見頃も逃してしまった。元気だよ全然、と主人公がいう割には、旅行の成果としては、あまりうまくいったとは言えないだろう(もちろん、「旅行の成果」をどこに据えるかによってそれは変わってくるが*3)。

 

振り切れない“あなた”

わざと大きな声でさよならって言った

わたしはだいじょうぶ 夢で逢ってるから

2番に入るも、冒頭と同じ歌詩が繰り返される。主人公は相変わらず強気に大丈夫だと繰り返すが、1番のままならない旅行の成果を見たときには、本当に大丈夫か気になってしまう。ある人が本当に元気だったり大丈夫だったりするとき、その人は元気や大丈夫とは言わないのではないだろうか。また、ここに「恋愛の二重性」が現れ出ているとみれば、大丈夫と口では言いながらも本当は大丈夫じゃないと解釈できる。

海はいつ行っても 空と同じ色で

遠く離れていても 寄り添っている

恐らく1番で展開された鎌倉旅行の続きだろう。鎌倉には由比ヶ浜海岸という有名な海岸があるが、江の電の由比ヶ浜駅が最寄りであることから、主人公が行ったのは恐らく由比ヶ浜海岸だろう。

やはり上掲歌詩の卓抜した比喩について語らざるを得ない。海と空は天と地がそうであるように遠く離れているはずだが、海岸から海を眺めると空と接しているようにみえる。海と空が近接している、くっついている、いろいろと言いようはあるだろうが、ここで選択された動詞は「寄り添っている」。人の身体的近接性を指す際によく使われる動詞が選択されていることから、ここに主人公とあなたの関係性を見出すことは不自然ではないだろう。空と海、それぞれが主人公とあなたのどちらに対応しているのかまでは判然としないが、「海はいつ行っても 空と同じ色で」とあることから、海に「不変」「不動」のイメージが重ねられていることが分かる。

1番では「曇り空」であり、2番では空が海と同じ色とあるので、紫陽花を見に行った翌日なのかもしれない。あるいは1番と同じ日で、たとえ曇り空だったとしても、海も同じような色にみえたのかもしれない。さらに、「いつ行っても」に注目すると、主人公が何度か海を訪れていることを示唆する。それはあなたと一緒だったのだろうか。それとも一人で憂さ晴らしに時たま訪れる場所なのだろうか。短いながらも、様々な想像を喚起する一節である。

目を閉じて砂に座って 聞こえる波は 右から左からザブーン

あなたがここにいたなら 何て言うだろう?

続く歌詩「目を閉じて砂に座って 聞こえる波は 右から左からザブーン」は、自身が海岸で経験したことをそのまま記述している。前の歌詩が比喩的であったのに比べれば、実に写実的である。前の歌詩では卓抜した比喩を用いて海と空を描いた主人公も、波についてはどうもうまい言い回しが浮かばず、どうもリアリスティックな記述に留まってしまったのだろうか。

ここで主人公は、「あなたならこの状況をどう語るだろうかなぁ」と、「あなた」について思いを巡らせる。このことから、「あなた」はもしかしたら芸術家やアーティスト、もしくはさまざまな言い回しや比喩の使い手だったのでは、と推測される。二人が一緒だった時は、お互いにこうして目に見える情景や日常のささいな出来事を比喩や上手い言い回しを使って言い合っていたのかもしれない。「夢で逢ってるから」に登場する「あなた」に関する情報は歌詩世界ではほとんど登場しないため、「あなた」がどんな人物かを想像するのは非常に難しいが、こうしたわずかな一節から、「あなた」の人物像の片鱗を見出すことができる。

わざと大きな声でさよなら言ったのは

言えそうもなかったから そうしないと

主人公がわざと大きな声でさよならと言ったのは、言えそうもなかったからだという。歌唱時は、「そうしないと」で間奏に入る(上で紹介したYouTubeのライブ映像ではトランペットのソロが入る)。つまり、ここで主人公は「そうしないと」以後の言葉を濁している。

主人公は別れの場面では、大声で別れを告げることで、さまざまな思いを振り切ろうとしたのであろう。そして歌詩世界でも冒頭から「私は大丈夫」「元気だよ全然」と平然とした態度をとり続け、ままならなかった鎌倉旅行の思い出を紹介してもなお「大丈夫」と言ってきた。そんな主人公が、別れの場面の本当の心境を告白し、その後言葉を濁す。やはり海岸であなたに思いを巡らせたあたりから、強気な主人公像に綻びがみえはじめている。「Ring! Ring! Ring!」で用いた〈建前〉と〈本音〉の構造で言えば、ここでは主人公の裏に潜む〈本音〉が、言葉でここまで展開されてきた強気な〈建前〉を食い破って露わになりつつあるといえる。

 

別れきれない思い出

主人公の沈黙を暗示する間奏が終わると、再び鎌倉旅行の話が続く。

海岸で裸足になって水と遊んで 家に戻って気付いたら

砂が 思い出みたいに ついてきて

 

街灯が見届けた あの最後のキスを

くちびるに触れてそっと 思い出した

海やビーチに一度でも行ったことがある人なら、帰ってきても砂粒が足や靴裏に鬱陶しくひっついてくる様子が想像できるだろう。海ではしゃいでその足で帰宅した主人公は、自分にひっついている砂を見て、「あなた」と最後にしたキスを思い出す。思い出がついてくる、という言い回しは、思い出が自分のなかにあるわけではなく、外からやってくるようなイメージを喚起する。主人公は鎌倉旅行を通して、「あなた」への思い出を振り切ろうとしていたのだと思われる。しかし砂粒をきっかけに、自分のなかで忘れようとしたキスの思い出が蘇ってきてしまった。

砂粒とキスは全く関係ないようにみえる。しかし、「くちびるに触れてそっと」とあることから、主人公の唇に砂がついていたのではないだろうか。それを手で取ろうとした時に、ふと「あの最後のキス」を思い出したと考えられる。

そう、ここで「あの最後のキス」という表現、特に「あの」の部分に着目しなければならない。それは、主人公が誰に向けて唄っているのか、という積み残してきた問いの答えに迫る際のヒントになるからだ。「あの」は、辞書的な説明をすれば、話してからも聞き手からも遠いところにあるものを指すときに使われる指示語である。また、「あの時は大変だった」「あの頃は賑やかだった」のように、話し手が回想して使う場合もある。この場合、聞き手がそのことについて知っていても知らなくても使われるが、ここは文脈を知っている人の前で使う「あの」である可能性が高い。なぜなら、「あの最後のキス」と、主人公が「あなた」と交わしてきた様々なキスのなかから、特定のキスを指示する目的で、ここでは「あの」が使われているからである。特定のキスについての情報をこの歌詩に先んじて共有している者に向かって主人公が唄っていると思われ、このことから、④の第三者の可能性は極めて低くなる。

もちろん、主人公が以前第三者にキスのことを話していて、そのことを思い出してもらうために「あの」と付け加えた可能性も否定できない。しかし、ここで効いてくるのが「街灯が見届けた」というフレーズである。街灯を擬人化したこの表現からイメージされるのは、真っ暗な外、周りには二人を除いて誰もいない状況で、街灯だけがこうこうと二人を照らしていた場面である。そんなドラマや映画のような場面で、二人は最後のキスを交わしたのだろう。

ある人が第三者に最後のキスについて告げるとき、そうした風景描写まで語るだろうか。最後のキスが街灯が照らす夜の誰もいない場所で行われたのは、その場にいた「あなた」と主人公しか知らなかった情報ではなかろうか。そう考えれば、やはりこの歌は主人公が現実世界で、主人公自身、ないしはあなたに向けて唄っていると考えるのが妥当な解釈であるといえる。

(※2023年1月18日追記:ここまでの論述で筆者は、「あの」が特定のキスの場面にいた人を想定して使われていることから、④の第三者に向けた唄である可能性を排除している。しかし、本稿を公開したあとで、ことはそう単純ではないことに気づかされる。契機となったのは、2023年1月12日の夜、『吉田美和歌詩集』を読んでいた時のことである。TEARS編に収録されている「冷えたくちびる」(中村正人監修、豊﨑由美構成・編集『吉田美和歌詩集 TEARS』新潮社、2015年、pp. 65-6)の歌詩を読んだ際、「街灯もうなだれて 濡れてる」(同上、p. 65)という一節が目に入った。続けて「わずかに残る キスの温度も この雨が奪って 冷えて消えていく」(同上、p. 65)という一節を見つけ、大いに驚いた。これはまさに、「夢で逢ってるから」の主人公が最後に交わしたキスの場面そのものではないか。「街灯」というキーワードが入っていることが何よりの証拠である。

「冷えたくちびる」は1995年にリリースされた吉田美和のソロアルバム『beauty and harmony』に収録された曲である。上掲歌詩の続きをみると、「何もかもを もう思い出せない かすかに覚えてた あなたの キスの温度さえ 奪って 冷えたくちびるに 雨は降り続く」(同上、p. 66)とある。主人公は相手と交わしたキスを、雨が降りしきるなかでもうすでに忘れてしまったようだ。仮に「冷えたくちびる」と「夢で逢ってるから」の主人公が同一人物だとすると、「冷えたくちびる」で降りしきる雨のなか忘れ去られてしまったキスが、「夢で逢ってるから」において砂粒を契機に思い出される、という両曲の繋がりが見えてくる。

このことから、「街灯が見届けた」を根拠に「夢で逢ってるから」は④の第三者に向けて唄われたものではない、と早急に判断することはできないと考える。筆者は当初、「あの」は最後のキスを交わした場面を知る者に向けて放たれた指示語だと解釈したが、そのことは必ずしも④の第三者を排除する根拠にはならない。最後のキスを交わした場面を知る者は、「冷えたくちびる」の歌詩を知る者も含まれるからである。

つまり「夢で逢ってるから」の主人公は、「冷えたくちびる」をすでに聞いた者に対し、「ほら、『冷えたくちびる』で唄ったあのキスだよ」という意味で「あの」を用いている可能性がある。「街灯」という、そのキスの場面にいなければ分からないであろう(と当初筆者が考えた)情景も、「冷えたくちびる」の歌詩のなかにもしっかりと登場している。そうすると、「夢で逢ってるから」は、吉田美和のソロアルバムを聴いてきたドリカムのファンに向けての、4年越しのアンサーソングと解することもできる。

このことを通じて筆者は、これまで歌詩世界を分析するに際して、唄を聞き届ける人に向けて歌詩が紡がれている可能性についてほとんど考えてこなかったことにも気づかされた。もちろん、「冷えたくちびる」との連続性という考察も一つの歌詩解釈の可能性でしかなく、唯一の正解というわけではない。ただし、筆者はこれまで歌詩世界を一つの完結した世界と見做し、聴衆の存在を無意識に排除してきたために、この可能性にすぐに気づけなかった。また一つの曲を完結した歌詩世界として解釈することで、他の曲との連続性という可能性も無意識のうちに考慮してこなかった。しかし、そもそもアーティストが歌をリリースするのは、その歌が誰かに聞き届けられることを望んでいるからであろう。今後は、ときには聴衆を重要なエージェントに含め、また他の曲や他の作品など歌詩世界の外の情報も適宜参照しながら、歌詩世界を解釈していきたいと考えている。)

さて、それでは主人公が唄っているのは自分自身に向けてか、それとも「あなた」に向けてか。判断の難しいところではあるが、主人公が「あなた」に「私はあなたと夢で逢ってるから大丈夫だよ」と告げる図は少し想像がつきづらいので、以降は主人公が主人公自身に歌っていると解釈することにしよう*4。そうすると、「夢で逢ってるから」は主人公が自身に「私は大丈夫」「元気だよ」と言い聞かせる、あるいは自身の中にある仮想の「あなた」に「私は大丈夫」「元気だよ」と話しかける唄と解釈できる。「私は大丈夫」「元気だよ」と話す主人公が鎌倉に行って「あなた」への思いや思い出と別れを告げようとするものの、どうも思い通りにいかないし、あなたについ思いを巡らせてしまうし、挙句最後のキスを思い出してしまうし、主人公の言葉と実態・想いはどうも乖離し続けている。

街灯が見ていた あの最後のキスは

この砂の粒のように 離れないけど

 

元気だよ全然 いろいろやってる

わたしはだいじょうぶ 夢で逢ってるから

これが「夢で逢ってるから」の最後の歌詩だが、主人公はここで再び元気を取り戻す。前半と後半が逆説「けど」でつながっているが、傍から見ているとどうも二つはつながっているようにはみえない。「あなたがここにいたなら」とふと考えてしまうし、思い出を忘れようとしてもふとしたきっかけで思い出してしまう。主人公はずっと「あなた」とは真の意味で別れきれていないのである。「元気だよ全然」と何度も繰り返されたフレーズが登場し、「いろいろやってる」に至っては、いや、いろいろって何やねん、と(沖縄出身の筆者が関西弁で)突っ込まざるを得ないぐらい、深い意味を持たない、つい口を突いて出てきた言葉のようにみえる。「元気だよ全然」という言葉を言葉通りに受け取らない可能性を先に示したが、本当は全然元気でもなければ大丈夫でもないのに、「元気だよ全然 いろいろやってる」と強がってしまう。とり乱しそうになるのをじっと堪えるその姿に、なぜそこまでして「元気だ」「私は大丈夫だ」と言い続けられるのだろうと、驚きを禁じ得ない。

しかし、実はその答えはずっと繰り返されている。それは主人公は「あなた」と「夢で逢ってるから」である。現実では恐らくもう逢うことのできない「あなた」と夢の世界では逢っている、だから現実の出来事がままならなくても、思い出とさよならできなくても平気なのである。「私はだいじょうぶ 夢で逢ってるから」という何度も繰り返されてきたフレーズが最後にまた繰り返されることで、冒頭や中盤とはまた違った意味が浮かび上がってくる。

歌詩を全篇見てきたが、最後まで主人公がみるという夢の内容が一切出てこないのは興味深い。タイトルにも入っていて、主人公が元気だ、私は大丈夫だと言い続けられる源であるはずの夢がどんな内容なのか、どのくらいの頻度でみているのか、主人公はその夢をどう解釈しているのか、この歌詩世界のなかでは一言も語られていない。そこは歌詩世界のなかでは徹底的に秘匿されている。夢の世界については、聞き手や読者であるわれわれの想像に委ねられている。

さて、「恋愛の二重性」というテーマに戻って振り返ってみると、「夢で逢ってるから」には二つの「恋愛の二重性」が見られることが分かる。第一に、ここまでの歌詩世界の分析から見えてきた、「あなた」と別れたことを平気なこととして語る主人公と、まだ思い出と別れることができていない主人公の二面性である。これは「Ring! Ring! Ring!」や「週に1度の恋人」で繰り返し登場してきた、強気な〈建前〉でもって〈本音〉を隠す主人公像が「夢で逢ってるから」でも再演されていることを示している。

もう一つの二重性は、夢の世界と現実世界の二重性である。先に示したように筆者は「夢で逢ってるから」の歌詩世界を、主人公が自分自身に向けて、現実世界で唄っているものとして解釈してきた。卓抜した比喩表現を使いながらも、リアリズムに徹して唄われる世界と、要所要所で「実はあなたと夢で逢っている」と示唆されながらもその仔細が明かされない夢の世界の二重性が、「夢で逢ってるから」のなかには出ている。そして夢の世界がどのようなものなのか一切語られないことで、ここまで赤裸々に心境を独白してきた主人公がそれでも語ろうとしない“夢”とはどのようなものなのか、この唄を聴く者の想像力は掻き立てられる。

ただし、「夢と現実」という二項対立的な図式は、この歌詩世界では成り立たないのかもしれない。というのも、これが主人公の主人公自身への独白であるとすれば、それは主人公の内的世界で展開されている話であって、現実世界で起こったこととどれだけ一致しているのかというのは判別がつかない(あるいは一致している必要性がない)からである。本稿では「夢と現実」という二項図式を自明視してここまで歌詩世界を見てきたが、この視座を相対化してみたとき、また違った歌詩世界の解釈可能性が見えてくるかもしれない。

 

おわりに

ここまで、「夢で逢ってるから」を題材に、吉田美和の歌詩世界において「恋愛の二重性」がいかに描かれているのかを見てきた。そして、「あなた」と別れたときも別れてからも平然と振る舞う主人公の〈建前〉に潜む、「あなた」との別れがたさという〈本音〉が、歌詩が進むにつれ徐々に顕わになり、なぜ主人公がとり乱さずに済んでいるのかといえば、それは「あなた」と夢で逢ってるからだ、ということが明らかにされた。〈建前〉と〈本音〉という、これまで「Ring! Ring! Ring!」や「週に1度の恋人」で繰り返し参照されてきた「恋愛の二重性」の構造に加えて、本稿は「夢と現実」という「恋愛の二重性」の存立可能性を示したことで、「恋愛の二重性」にさらに迫れたのではないかと考える。

なお、繰り返すが、本稿で提示した歌詩世界の分析は、筆者の一つの解釈にすぎない。私とは違った読み方もあり得れば、私の解釈に異を唱える者もいるだろう。本稿がきっかけで、吉田美和の歌詩世界を読みとく試みが増えてくれれば、これ以上に嬉しいことはない。

*1:この方針にむむっ、果たしてそうかな、と思った方は、夢の世界バージョンの考察をしてみてはどうだろうか。是非ともそうした考察も見てみたいからである。これは決して挑発の意味ではなく、文字通りの意味でそう思う。

*2:参考にしたサイト:https://buzz-trip.com/kamakura/kamakuraweather/ バズトリ -BuzzTrip Kamakura- 観光・グルメ・自然(2023年1月7日閲覧)

*3:関連して、ドリカムファンの間で「夢で逢ってるからごっこ」という言葉を見聞きしたことがある。「夢で逢ってるから」の歌詩をなぞり、実際に江の電に乗って鎌倉を旅し、紫陽花を見たり由比ヶ浜海岸に行ったりすることである。大抵は紫陽花の見頃に鎌倉を旅行するだろうが、なかにはこの歌詩世界の主人公の行動や経験を完全に模倣するために、紫陽花の見頃を敢えて外して硬いつぼみを観察し、半袖で鎌倉を訪れ、「半袖もまだまだ寒いね」と感じる人もいるかもしれない。歌詩世界を完全に模倣したい人にとっては、こうした旅行の成果であれば大成功というほかない。

*4:もちろんこの点についても、*1同様、いやいや「あなた」に向けて唄っているだろう、と思われた方は、是非その発想にもとづいて歌詩を分析してみてほしい。どんな違った歌詩世界の解釈が見えてくるのか、興味がある。

恋愛の二重性を唄う吉田美和(I)——週に1度の恋人

はじめに

私は、中学生の頃から現在進行形でDREAMS COME TRUEの大ファンである。最初はドリカムの歌のメロディーやボーカルの吉田美和の歌唱力に惹かれていたが、あることをきっかけに、作詞家・吉田美和の歌詩世界にも次第に関心を寄せるようになっていった*1。歌詩世界の素晴らしさに魅了されるうちに、いつしか吉田美和の詩の世界について分析したものを、何らかの形で発信してみたい、と考えるようになった。

fashiontechnews.zozo.com

そんなことを考えていたら、DREAMS COME TRUEの「Ring! Ring! Ring!」の歌詩をファッションに注目して分析する上掲コラムを目にした。このコラムに触発され、吉田美和の歌詩についてまとまったものを書きたいという意欲が湧いてきたので、本稿は吉田美和の歌詩世界に迫っていきたいと思う。

恋愛の二重性

上掲コラムではどんなことが書かれているのか、簡単に紹介しておこう。「Ring! Ring! Ring!」の歌詩において、主人公は“ヤツ”からの誘いに対して「暇だったからよ」「しょうがないから行ってあげる」といった言葉を並べ、強気な自分を取り繕う。しかしそうした〈建前〉の裏には、主人公も気づいていない(気づこうとしない)、“ヤツ”に早く会いたくて仕方ないという〈本音〉が潜んでいる。言葉で繕う〈建前〉に潜む〈本音〉は、服装や髪形といったファッションに関する情報によって提示されていた。

「Ring! Ring! Ring!」の「起」や「承」においては、この〈建前〉と〈本音〉の乖離が目立つものの、「転」を迎えて主人公の〈本音〉が“ヤツ”に完全にばれてしまってからは、〈本音〉を曝すようになり、「結」において〈建前〉と〈本音〉は主人公のなかで一つの自己として融解していく。「Ring! Ring! Ring!」は、主人公が「強気な自分」という建前によってではなく自分らしく相手と接するようになるまでの過程を描いている、という結論でもってエッセイは締められる。

コラムのテーマがファッション×テクノロジーであったためか、ファッションという記号の役割にフォーカスを当てて上掲コラムは執筆されているようにみえるが、改めてこうしてコラムの内容を振り返ってきたときにみえてくるのは、恋愛の二重性というテーマである。

はてさて、恋愛の二重性とは何か。これは私の造語だが、建前と本音といった二重の自己や、相反する(ようにみえる)二重の気持ちなど、恋愛をめぐって揺れ動く2つの感情が折り重なって存在している様子を指している。

会いたいのに会いたくない、好きなのに嫌い、伝えたいのに伝えられない…恋をすると人は、こうした矛盾する感情に苛まれることがある。また、嫌っているはずの相手への感情が、実はその相手への恋愛感情の裏返しであることに気づくといったことは、恋愛漫画や小説、映画など様々な作品で広く描かれてきた。好きの反対は無関心とはよく言ったものだ。恋愛をめぐっては、好きや愛してるといった言葉だけには包含しえない、二重の感情や二重の自己に苛まれる人がいる。

こうした恋愛の二重性というテーマは、何も「Ring! Ring! Ring!」に限られるものではなく、吉田美和の作詩した他の曲にも広くみられるのではないか。こうした関心のもと広く吉田美和の歌詩世界を探索してみると、恋愛の二重性を唄う興味深い曲がいくつもあることに気づいた。

前置きがかなり長くなってしまったが、本稿は「Ring! Ring! Ring!」において提示された恋愛の二重性というテーマについて、さらに深めていきたい。今回は、恋愛の二重性を唄う多数の曲のなかから「週に1度の恋人」を取り上げ、どのように恋愛の二重性が現れ出ているのか、「Ring! Ring! Ring!」と比較しながら見ていこうと思う。

なお、本稿で引用された実際の歌詩や曲の背景の説明以外に書かれていることは、すべて筆者の一つの解釈にすぎないことをつけ加えておく。

 

「週に1度の恋人」とは

「週に1度の恋人」は、1989年3月にリリースされたドリカムのファーストアルバム「DREAMS COME TRUE」に収録されている。その後、同年6月に発売のシングル「APPROACH」にカップリング曲として収録されている。吉田美和はこの曲を高校生の時には作っていたらしく、ベーシストの中村正人がドリカムの結成前吉田と初めて会った時、吉田が中村にアカペラで唄って聞かせたという逸話をもつ曲だ。ファンの間では根強い人気がある曲で、コンサートでも度々披露されている(2016年のライブツアー披露時の映像は、下掲のYouTubeから見られる)。なお、歌詩を引用する際は、基本的にファーストアルバム「DREAMS COME TRUE」の歌詩カードを典拠とする*2

歌詩:

DREAMS COME TRUE 週に1度の恋人 歌詞 - 歌ネット

コンサート映像(裏ドリワンダーランド2016より):

www.youtube.com

 

曖昧で不安定な関係を続けること

「週に1度の恋人」というタイトルからは、この歌詩世界の恋人関係は「週に1度」という条件のもと成り立っていることが分かる。一般に恋人関係は、何らかの前提条件なく続くもので、関係性に対してお互いが全面的にコミットメントするものとされているだろう。しかしこの恋人関係には「週に1度」という条件がある。この謎は、冒頭の歌詩においてすぐに解かれる。

週に1度だけ 二人だけの夜が来る

かすかに残してる 彼女の匂いを無視して

「恋人」である主人公の相手には、彼女がいるのだ。主人公が相手と二人だけの時間を過ごせるのは週に1度だけで、他の日は彼女と過ごすのだろう。彼女の残り香を無視する主人公は、相手に彼女がいることを当然知っている。

せつない心は 誰にも見せずに

どんな無理な“カケヒキ”もやってのける

彼女がいることを分かっていながら相手と週に1度の恋人関係を続ける主人公は、そのことに切なさを覚えているようだ。驚きなのは、「誰にも見せずに」という一節である。この恋人関係やその関係に対する想いを、主人公は誰にも話さない。恐らく、友達や家族にも内緒の関係なのだろう。誰にも打ち明けず、一人で抱えるしかないことの辛さは、いかほどのものだろうか。

彼女がいる人と曖昧で不安定な関係を続けているこの状況を一人で抱えながらも、主人公は相手との“カケヒキ”さえやってのけるという。

私からは電話はしない

Callが鳴っても すぐには出ない

ホントは待ってたなんて言わない

最後まで きっと…

これが、主人公の駆け引きの内容である。「Ring! Ring! Ring!」に表れていた、強気な建前で本音を隠そうとする主人公像がここにも現れている。自分から電話したり電話にすぐに出たりしないことで、相手からの連絡を待っているという本音を悟られないように振る舞っている。このサビが「最後まで きっと…」で締められていることは、のちに重要な意味を帯びてくる。

一緒に過ごせる週に1度というのが、決まった曜日なのかどうかは明示されていない。しかし、「私からは電話はしない Callが鳴っても すぐには出ない」という一節を見れば、主人公は相手からの電話で呼び出されるようである。曜日は不特定なのかもしれないし、曜日が決まっていたとしても、相手の都合の悪いときには電話がかかってこないのかもしれない。相手が彼女と一緒に夜を過ごせない時や、相手が暇しているときのように、相手の都合のいいときにだけ、主人公は相手と二人きりの時間を過ごせるのである。相手の都合に合わせて会えたり、会えなかったりする、まさに“都合のいい存在”扱いされているのである。

 

“都合のいい存在”で居続けること

さて、歌詩は2番に移る。主人公はそのことをどう思っているのか。

今もおびえてる いつか来るさよならに

“ホンキ”を見せたなら それで負けなのを知ってて

苦しい涙は 誰にも見せずに

彼女のこと話しても 笑ってあげる

主人公は相手とさよならすることを、何よりも恐れている。“ホンキ”、相手との真剣な関係(お互いに恋人がいない状態で交際をする)を望んでいることを相手に悟られてしまったら、「負け」になってしまうのである。「負け」という言葉が選択された背景には、1番にあった駆け引き・勝負のイメージが引き継がれていると考えられる。本音を悟られたら負けになってしまうならば、主人公は“都合のいい存在”扱いをされ続けることを望む。だから、相手との曖昧で不安定な恋人関係を続けるし、相手が彼女のことを話題に挙げても、嫉妬や不安の気持ちを見せることなく、笑って対応するのである。

私からは電話はしない

Callが鳴っても すぐには出ない

愛してなんて口にしたりしない

最後まで きっと…

1番のサビと見比べると、3行目が違うのが分かる。1番では相手からの連絡を待っていたという本音が描かれていたのに対し、ここでは愛して、というより包括的な本音が描かれている。しかし、当然この本音は相手に届けられることはない。そしてこのサビも、「最後まで きっと…」というフレーズで締めくくられる。

 

ひた隠しにされる本音

さよなら言われて 泣き出さないように

いつでも平気な顔で うなずけるように

ここで主人公は、一番避けたい結末であるはずの、相手にさよならと言われた時にどう振る舞うかを想像している。主人公はここでも、相手の前では強気でい続けようとする。既に彼女がいる相手と、週に1度だけという条件のもと、相手からの連絡によって会えたり会えなかったりするし、相手は時には彼女のことを話す…そんな関係がいつ終わるかも、主人公は予測できないし、終わりを拒否することさえできない。関係の終わりを言い渡されても、うなずくしかないのである。

徹底して相手に主導権を握られたまま続いている恋なのに、主人公は自分の本音を徹底して相手には隠す。そんな主人公の、究極の本音がポロっと吐き出されるのが、上掲歌詩の直後に入る「I wanna be your lover」という一節である。loverにはいろいろな意味がある。それこそ愛人のような関係を指す言葉でもあるが、ここでは「愛する人」「恋人」といった意味で取るのが妥当だろう。

注目すべきは、この一節の扱いである。これは歌ネットの歌詩には記載されているが、「DREAMS COME TRUE」の歌詩カードには記載されていない。また、実際の歌唱を見ると分かるが、吉田美和はこの一節を唄わない。CD音源やライブで披露する際にはバッキングボーカルが唄うし、2010年に開催されたライブツアー「POCARI SWEAT 30th SPECIAL LIVE ドリ×ポカリ 〜イキイキ!」でこの曲が披露された際は、吉田美和はこの一節を唄うバッキングボーカルを指差している。主人公が強気な建前でもって相手との恋の駆け引きを演じ続けるさまを唄い、曖昧な関係が続くことへの寂しさや不安、相手との関係が終焉することへの怯えを率直に唄う吉田美和が、ここにきて主人公の本音の核の部分であるはずの一節を唄わないのである。

このことは、歌詩全体にどのような効果をもたらしているのだろう。少し迂回路ではあるが、ラストの歌詩を見ると、その謎が少し解けると思われる。

私からは電話はしない

Callが鳴っても すぐには出ない

ホントは待ってたなんて言わない

愛してなんて 最後まで言わない

1番のサビの歌詩と3行目まで一致しているが、4行目を見て欲しい。「愛してなんて 最後まで言わない」と、ハッキリと言い切り曲が締められる。「最後まで きっと…」と1番や2番では曖昧にしか想像されていなかった“最後”が、はっきりとここで打ち出されている。ここで主人公は明白に、「愛して」という核の本音を、最後まで絶対に口にせず、封印すると宣言している。

ここでさらに、歌唱のペースにも着目してみたい。1番と2番では、「ホントは待ってたなんて言わない」や「愛してなんて口にしたりしない」の最後のフレーズ「言わない」「しない」が少しスローテンポになり、フレーズを伸ばす歌唱になっている。そして「最後まで きっと…」はより遅いペースで唄われる。対して、曲の終盤では「ホントは待ってたなんて言わない」という1番と同じフレーズが、ペースが遅くなることなく唄い上げられ、「愛してなんて 最後まで言わない」まで同じリズムで一気に唄い上げられる。

このリズムの違いは、主人公の気持ちの揺れ動きの度合いに由来すると考えられないだろうか。1番や2番でサビのテンポが後半に行くにつれスピードが落ちていくことで、主人公の気持ちの躊躇いが暗示されていると解釈できる。躊躇いの気持ちは「きっと…」というフレーズにも表れ出ている。強い建前で自分の本音を隠そうとする主人公には、この時点で最後までその建前を守り続けられるのか、不安があるのだろう。

それに比べ終盤では、終焉の場面を主人公が具体的に想像したことで、自分の強気な建前に対する躊躇いがなくなっている。終わりを告げられるときにも強気で行こう、本音を悟られないようにしよう、と決意した主人公は、終盤において、1番や2番よりももっとはっきりと、相手との強気な駆け引きを続けることを決意する。

終盤まで歌詩を見たところで、“I wanna be your lover”の謎に立ち戻ろう。“I wanna be your lover”を挟んだ前半部と後半部を、「DREAMS COME TRUE」の歌詩カードにある通りに表記してみると、あることに気がつく。

さよなら言われて 泣き出さないように

いつでも平気な顔で うなずけるように

 

私からは電話はしない

Callが鳴っても すぐには出ない

ホントは待ってたなんて言わない

愛してなんて 最後まで言わない

上掲引用を見てみると、「~ように」で締められる前半部が後半部の行為の動機になっていることが分かる。つまり、相手から関係の終焉を言い渡されても、泣くことなく頷けるように、私から電話はしないし、電話が鳴ってもすぐには出ないし…と続く。すなわち、歌詩のなかで繰り返し描かれてきた強気な建前が、相手との関係が終焉するときにも本音を隠し続けられるようにするための条件となっているのである。

この前半部と後半部の関係性が分かるようにするためには、究極の本音である“I wanna be your lover”は歌詩に書かれてはならないし、ボーカルによって唄われてはならない。バッキングボーカルや会場で唄う観客の声全体を含めて考えれば、「週に1度の恋人」という歌では、究極の本音である“I wanna be your lover”と、躊躇いを失った建前(終盤の「私からは電話はしない~」)が撞着している。しかし、あくまでも歌詩世界や吉田美和の歌唱パートだけ見れば、究極の本音は書かれず、唄われないのである。

究極の本音は歌詩には書かれず、唄われもしないが、それでも音楽の世界には表現されている。別れの場面でも弱気にならないように、私はいつでも強気でいるんだ、と主人公が心境を唄うところの、歌詩と歌詩の少しの隙間に、究極の本音がバッキングボーカルによって唄われる。それはさながら、どこまでも強気な主人公が、自分の本音に蓋をして建前を語ってきたのが、ふとした瞬間に蓋がずれて本音が漏れてしまったようである。本音の極致と躊躇のない強気な建前が撞着している様は、主人公の恋愛の二面性を表している。

先に紹介したエッセイで取り上げた「Ring! Ring! Ring!」では、〈本音〉を〈建前〉で覆い隠す構造が歌詩世界の中盤で綻びはじめ、終盤では〈本音〉を隠すことなく相手と接することの喜びを主人公が受容していくが、「週に1度の恋人」においては、終始〈本音〉は隠され続ける。それは彼女がいながら主人公と曖昧な関係を続けようとする相手だけにではなく、ボーカルの歌唱においても、歌詩世界を読みとく読者に対しても隠される。愛して欲しいという〈本音〉が知られてしまった場合、主人公は相手に負けてしまうからである。

都合のいい存在として扱われる主人公は切なさや苦しさを抱えながらも、相手に負けてしまうことだけは避けたい。それならば、本音をひた隠しにして都合のいい存在で居続けるのが、主人公にとってもまた、都合がいいのである。「Ring! Ring! Ring!」が、主人公が「恋愛の二重性」を引き受けて自分らしく接するまでの過程、いわば“恋のはじまり”の瞬間を描いているとすれば、「週に1度の恋人」は主人公が「恋愛の二重性」を徹底して隠し通すことで、お互いにとって都合のいい関係を維持し、“恋のおわり”をいつまでも先延ばしにしようとする様子を描いているといえる。

 

おわりに

ここまで、「週に1度の恋人」を題材に、吉田美和の歌詩世界において「恋愛の二重性」がいかに描かれているのかを見てきた。そして、主人公の核となる本音を吉田美和は唄わず、歌詩にも記載しないことで、恋愛の二重性を唄うということが「週に1度の恋人」という曲全体で成し遂げられていることを示した。恋愛の二重性をひた隠しにする様を描くことで、恋愛の二重性を浮かび上がらせるという逆説的な手法があり得ることを、「週に1度の恋人」は示してみせた。本稿を通じて、吉田美和の歌詩世界の深淵にほんのわずかながら迫れたと信じたい。

なお、繰り返すが、本稿で提示した歌詩世界の分析は、筆者の一つの解釈にすぎない。私とは違った読み方もあり得れば、私の解釈に異を唱える者もいるだろう。本稿がきっかけで、吉田美和の歌詩世界を読みとく試みが増えてくれれば、これ以上に嬉しいことはない。

最後に、本稿のタイトルは「恋愛の二重性を唄う吉田美和(I)」となっているが、これは同タイトルのブログ(II)や(III)が控えていることを示唆している。本稿の執筆構想時は、本稿で「週に1度の恋人」だけではなく他にあと2曲を取り上げて、3曲を比較しながら論を進めていくつもりだった。しかし、「週に1度の恋人」の考察を書き終えた時点で、いかんせん字数がものすごいことになってしまった。なので、本稿で取り上げ損ねた他2曲については、第二弾、第三弾のブログにて取り扱おうと思う。

*1:きっかけは複数あるが、2014年に発売された『吉田美和歌詩集』を手に取ったことや、2021年にライブツアー「DREAMS COME TRUE ACOUSTIC風味 LIVE 総仕上げの夕べ 2021/2022 ~仕上がりがよろしいようで~」に参加したことなどがある。機会があれば、稿を改めてこのことについても論じてみたい。

*2:本文でも触れるが、歌ネットの歌詩は「DREAMS COME TRUE」の歌詩カードの歌詩と表記(1番“かけひき”→“カケヒキ”など)や歌詩として書いている範囲(冒頭「Fu ha ha...」は歌詩カード版にはない、など)が微妙に違うことに留意されたい。